2019年02月11日
『映画「あの日のオルガン」―戦時中の疎開保育園の記録ー』
事務所の印刷機の調子がおかしくて、支部長と副支部長が二人がかりであたふたしていました。しんぶんを分ける月曜の朝はとっても忙しいです。今日は祝日、家に子どもいるしね~。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆2月14日号
『映画「あの日のオルガン」―戦時中の疎開保育園の記録ー』
原作者 久保つぎこさんに聞く
太平洋戦争末期、日本で初めて保育園を疎開させようと奮闘した保母たちがいました。疎開保育園の実話をもとに、戦争の理不尽さを描いた映画『あの日のオルガン』(平松恵美子監督・脚本)が公開されます。原作者の久保つぎこさんに聞きました。
戦時中の学童疎開はよく知られていますが、就学前の保育園、幼稚園の「園児疎開」はほとんど知られていません。
園児疎開が始まったのは、終戦の2カ月前。その前年、国の決定を待たず。単独で決行した民間の保育所が都内の戸越保育園と愛育燐保館です。二つの保育園から幼児53人、保母ら11人が埼玉県蒲田市の荒れ寺に疎開しました。1944年11月から終戦の45年8月までです。幼児は3~5歳、保母は19~27歳。
映画は、幼いわが子を手放す不安と、空襲から我が子だけでも助けたいと意見の分かれる親たちを、保母たちが説得するシーンから始まります。
「若い女優さんたちがいいですよね、すがすがしくて。平松監督は、若い俳優さんたちに〝とにかく子供の面倒を見てね"と言ったらしい。子ども特有の自然力が、現場の人たちに影響して、スクリーンのあのあたたかさが生まれた。子どもが尊重されたから、撮影の現場は戦場みたいなものですが、小さい子どもたちを怖がらせないようにと配慮して、とてもいい現場だったそうです」
1945年8月に戦争が終わった時、久保さんは1歳半。戦争体験はありません。映画化のために、疎開保育園の記録を書いてほしいと言われた時は37歳。劇団民藝の俳優をへて、童話作家の仕事を始めたころで、子ども2人は保育園に虚っていました。
当時の関係者に取材し、調査を重ね、3年かかって書きあげたのが『君たちは忘れない 疎開保育園物語』(1982年)でした。今回の映画化にともない、『あの日のオルガン』として新装版ができました。
当初、便所は一カ所しかなく、天戸には穴が開き、ガラス戸も壊れ…。食糧難はもちろん、保育に必要な環境からはほぼ遠いなか、一つひとつの問題を解決していく保母たち。あまりの過酷さに全員生理が止まったと言います。
「当時はまだ、戦争の記憶―飢えや、普通の人がたくさん殺されたことをみんな覚えていました。私の場合は、かつて俳優だったことが、インタビューを言語化するのにとても役立ちました。でも、映画化の話はつぶれちゃって…」
これまでなんども映画化の試みがありながら、とん挫して、今回ようやく実現しました。
疎開保育園の子どもたちは、終戦の日まで全員が無事でした。しかし、1945年の3月、5月の空襲で、東京の親兄弟を失った子どももいました。久保さんは東京大空襲で両親と妹を亡くした、当時4歳のけんちゃん(本作の主人公の1人)とは今でも親交があります。
けんちゃんは、映画化の話にこう言いました。「おれのことはさておいて。8月15日前後になると、戦争がメディアで取り上げられるけど、過去にこういうことがありましたと言うだけではだめなんだ。大事なことは、命を救われたおれたちが戦後、戦争反対のために何をやったかと言う事。それを描かなければ〝トカゲのしっぽ切り”だ」と。けんちゃんの思いは観客一人ひとりに向けられています。
久保さんは、話します。「今になって映画化が実現したのは理由のあることだと思います。戦争中の悲惨な体験を、人びとは『忘れてしまう』ものです。自分たちが生きている間に伝えておかなくてはという危機感と連帯感で、たくさんの方が、市民プロデューサーになって、出資もしてくださったんです。ぜひ、多くの方に観ていただきたいです」。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆2月14日号
『映画「あの日のオルガン」―戦時中の疎開保育園の記録ー』
原作者 久保つぎこさんに聞く
太平洋戦争末期、日本で初めて保育園を疎開させようと奮闘した保母たちがいました。疎開保育園の実話をもとに、戦争の理不尽さを描いた映画『あの日のオルガン』(平松恵美子監督・脚本)が公開されます。原作者の久保つぎこさんに聞きました。
戦時中の学童疎開はよく知られていますが、就学前の保育園、幼稚園の「園児疎開」はほとんど知られていません。
園児疎開が始まったのは、終戦の2カ月前。その前年、国の決定を待たず。単独で決行した民間の保育所が都内の戸越保育園と愛育燐保館です。二つの保育園から幼児53人、保母ら11人が埼玉県蒲田市の荒れ寺に疎開しました。1944年11月から終戦の45年8月までです。幼児は3~5歳、保母は19~27歳。
映画は、幼いわが子を手放す不安と、空襲から我が子だけでも助けたいと意見の分かれる親たちを、保母たちが説得するシーンから始まります。
「若い女優さんたちがいいですよね、すがすがしくて。平松監督は、若い俳優さんたちに〝とにかく子供の面倒を見てね"と言ったらしい。子ども特有の自然力が、現場の人たちに影響して、スクリーンのあのあたたかさが生まれた。子どもが尊重されたから、撮影の現場は戦場みたいなものですが、小さい子どもたちを怖がらせないようにと配慮して、とてもいい現場だったそうです」
1945年8月に戦争が終わった時、久保さんは1歳半。戦争体験はありません。映画化のために、疎開保育園の記録を書いてほしいと言われた時は37歳。劇団民藝の俳優をへて、童話作家の仕事を始めたころで、子ども2人は保育園に虚っていました。
当時の関係者に取材し、調査を重ね、3年かかって書きあげたのが『君たちは忘れない 疎開保育園物語』(1982年)でした。今回の映画化にともない、『あの日のオルガン』として新装版ができました。
当初、便所は一カ所しかなく、天戸には穴が開き、ガラス戸も壊れ…。食糧難はもちろん、保育に必要な環境からはほぼ遠いなか、一つひとつの問題を解決していく保母たち。あまりの過酷さに全員生理が止まったと言います。
「当時はまだ、戦争の記憶―飢えや、普通の人がたくさん殺されたことをみんな覚えていました。私の場合は、かつて俳優だったことが、インタビューを言語化するのにとても役立ちました。でも、映画化の話はつぶれちゃって…」
これまでなんども映画化の試みがありながら、とん挫して、今回ようやく実現しました。
疎開保育園の子どもたちは、終戦の日まで全員が無事でした。しかし、1945年の3月、5月の空襲で、東京の親兄弟を失った子どももいました。久保さんは東京大空襲で両親と妹を亡くした、当時4歳のけんちゃん(本作の主人公の1人)とは今でも親交があります。
けんちゃんは、映画化の話にこう言いました。「おれのことはさておいて。8月15日前後になると、戦争がメディアで取り上げられるけど、過去にこういうことがありましたと言うだけではだめなんだ。大事なことは、命を救われたおれたちが戦後、戦争反対のために何をやったかと言う事。それを描かなければ〝トカゲのしっぽ切り”だ」と。けんちゃんの思いは観客一人ひとりに向けられています。
久保さんは、話します。「今になって映画化が実現したのは理由のあることだと思います。戦争中の悲惨な体験を、人びとは『忘れてしまう』ものです。自分たちが生きている間に伝えておかなくてはという危機感と連帯感で、たくさんの方が、市民プロデューサーになって、出資もしてくださったんです。ぜひ、多くの方に観ていただきたいです」。