2015年11月30日
『日本初の女性報道写真家 笹本恒子さん 101歳 わたくしの「欲張り」は変わりません』
さて11月ももう終わり。いよいよ今年の終わりも近づいてきました。急に寒くなったしね。新婦人は12/4日の県大会に向けて忙しい日々を過ごしております。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆12月3日号
『日本初の女性報道写真家 笹本恒子さん 101歳 わたくしの「欲張り」は変わりません』
日本初の女性報道写真家、笹本恒子さんは、今も現役で活躍しています。新刊『好奇心ガール、いま101歳』(小学館文庫)を出版し、現在は金沢21世紀美術館(石川県)で、激動の昭和と、その時代を力強く生きた人物像、写真180点余で振り返る写真展が開催中です。
今年9月で万101歳になりました。
100歳になるまで入院したことはなかったんです。それが一人暮らしのマンションで転倒して、骨を折っちゃった。
100歳を超えてのリハビリ、復活、老人ホームへの入所という顛末は、新書に書いたのですが、図々しすぎて、みんなびっくりしているの。わたくしはいくつになっても、どんな状態になっても欲張りなのです。
少女のころの望みは、絵描きになること、それがだめなら小説家か新聞記者になりたかったんです。写真の道に入ったのは、東京日日新聞(現・毎日新聞)でカットを描くアルバイトをしていたころ、ちょっとのぞきにいった写真協会(財団法人)で、「日本にはまだ女性の報道写真家はいません。あなた、やってみませんか?」と、設立者の林謙一さんに誘われたのがきっかけです。まさに、好奇心。日中戦争たけなわの1940年(昭和15年)に入社しました。
「女性の目で見てください」。入った時、林さんはこう言われました。10代のころ、作品を持って画家の三岸節子さん(1905~1999)を訪ねたとき、なにも男の真似をしなくてもいいのよ」と同じようなことを言われたのを思い出しました。以来、いつも2人の言葉を考えながら写真を撮ってきました。わたくしの原点ですね。
1960年(昭和35年)三井三池炭鉱の解雇撤回闘争を取材しようと、単身、九州へ行った時も。わたくしの撮りたいのは女性たちでした。お父さんたちと一緒にたたかう女性たちの姿は謙虚だけどたくましい。ストライキ中は1日100円とか、一生懸命に倹約してお食事の支度をしていらした。そういう中で、新聞の中に梅の花を包んだものを大事そうに抱えているんです。割ぽう着着て、はちまきしているんですよ。節約した暮らしの中でもおひなさまのお花を買う。あっ、これは女性の姿だと思いました。
戦後はフリーになり、激動の時代を撮り続けてきましたが、やむを得ず写真から距離を置いて過ごした時代もありました。
1985年(昭和60年)、昭和という時代が〝還暦”を迎えた年に、室生犀星や井伏鱒二さん、撮りためてきた昭和史を彩った人たちの写真展を開き、30年近くを経て、やっと復活できました。当時71歳、同世代の人たちがリタイアするときですね。もう一度、カメラを手にしたわたくしが、ぜひ撮りたいと思ったのは、明治生まれの女性たちでした。
終戦後、新憲法が発布されるまで、女性には選挙権も被選挙権もなく、「女・子ども」とひとくくりにされていました。そんな男尊女卑の時代に、明治の女たちは時には子どもをおぶって家事をしながら仕事をし、戦後を迎えたときにはすでに、画家、作家、声楽家として名を上げている人がたくさんいたのです。大正生まれの私が、これを残しておかなくてはと、図書館に通って、役100人を取材しました。
櫛田ふきさん(日本婦人団体連合会元会長 新日本婦人代表委員)も、撮らせていただいたそんな一人。櫛田さんとは、戦後のいっとき嘱託として働かせていただいた婦人民主しんぶん(宮本百合子らが結成した婦人民主クラブの機関紙)時代に知り合い、「あら、あなたが写真も記事も両方やってくれるの。うれしいわ」なんてずいぶんよくしてくださいました。
櫛田さんは、9条を守ろうって、懐にいつも憲法のしおりを入れていて、私もいただきました。
戦争放棄は本当に大切です。人殺しですから、戦争は。安保関連法案をめぐる国会行動で若い人たちが立ち上がる姿を見て、日本も捨てたものではないと思いました。わたくしも足が悪くなければ行きたかったですね。
もういくつだわなんて考えたらおしまい。何歳からでも学べるし、してきたことで無駄になることは一つもありません。
いくつになってもときめいて生きたいですね。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆12月3日号
『日本初の女性報道写真家 笹本恒子さん 101歳 わたくしの「欲張り」は変わりません』
日本初の女性報道写真家、笹本恒子さんは、今も現役で活躍しています。新刊『好奇心ガール、いま101歳』(小学館文庫)を出版し、現在は金沢21世紀美術館(石川県)で、激動の昭和と、その時代を力強く生きた人物像、写真180点余で振り返る写真展が開催中です。
今年9月で万101歳になりました。
100歳になるまで入院したことはなかったんです。それが一人暮らしのマンションで転倒して、骨を折っちゃった。
100歳を超えてのリハビリ、復活、老人ホームへの入所という顛末は、新書に書いたのですが、図々しすぎて、みんなびっくりしているの。わたくしはいくつになっても、どんな状態になっても欲張りなのです。
少女のころの望みは、絵描きになること、それがだめなら小説家か新聞記者になりたかったんです。写真の道に入ったのは、東京日日新聞(現・毎日新聞)でカットを描くアルバイトをしていたころ、ちょっとのぞきにいった写真協会(財団法人)で、「日本にはまだ女性の報道写真家はいません。あなた、やってみませんか?」と、設立者の林謙一さんに誘われたのがきっかけです。まさに、好奇心。日中戦争たけなわの1940年(昭和15年)に入社しました。
「女性の目で見てください」。入った時、林さんはこう言われました。10代のころ、作品を持って画家の三岸節子さん(1905~1999)を訪ねたとき、なにも男の真似をしなくてもいいのよ」と同じようなことを言われたのを思い出しました。以来、いつも2人の言葉を考えながら写真を撮ってきました。わたくしの原点ですね。
1960年(昭和35年)三井三池炭鉱の解雇撤回闘争を取材しようと、単身、九州へ行った時も。わたくしの撮りたいのは女性たちでした。お父さんたちと一緒にたたかう女性たちの姿は謙虚だけどたくましい。ストライキ中は1日100円とか、一生懸命に倹約してお食事の支度をしていらした。そういう中で、新聞の中に梅の花を包んだものを大事そうに抱えているんです。割ぽう着着て、はちまきしているんですよ。節約した暮らしの中でもおひなさまのお花を買う。あっ、これは女性の姿だと思いました。
戦後はフリーになり、激動の時代を撮り続けてきましたが、やむを得ず写真から距離を置いて過ごした時代もありました。
1985年(昭和60年)、昭和という時代が〝還暦”を迎えた年に、室生犀星や井伏鱒二さん、撮りためてきた昭和史を彩った人たちの写真展を開き、30年近くを経て、やっと復活できました。当時71歳、同世代の人たちがリタイアするときですね。もう一度、カメラを手にしたわたくしが、ぜひ撮りたいと思ったのは、明治生まれの女性たちでした。
終戦後、新憲法が発布されるまで、女性には選挙権も被選挙権もなく、「女・子ども」とひとくくりにされていました。そんな男尊女卑の時代に、明治の女たちは時には子どもをおぶって家事をしながら仕事をし、戦後を迎えたときにはすでに、画家、作家、声楽家として名を上げている人がたくさんいたのです。大正生まれの私が、これを残しておかなくてはと、図書館に通って、役100人を取材しました。
櫛田ふきさん(日本婦人団体連合会元会長 新日本婦人代表委員)も、撮らせていただいたそんな一人。櫛田さんとは、戦後のいっとき嘱託として働かせていただいた婦人民主しんぶん(宮本百合子らが結成した婦人民主クラブの機関紙)時代に知り合い、「あら、あなたが写真も記事も両方やってくれるの。うれしいわ」なんてずいぶんよくしてくださいました。
櫛田さんは、9条を守ろうって、懐にいつも憲法のしおりを入れていて、私もいただきました。
戦争放棄は本当に大切です。人殺しですから、戦争は。安保関連法案をめぐる国会行動で若い人たちが立ち上がる姿を見て、日本も捨てたものではないと思いました。わたくしも足が悪くなければ行きたかったですね。
もういくつだわなんて考えたらおしまい。何歳からでも学べるし、してきたことで無駄になることは一つもありません。
いくつになってもときめいて生きたいですね。
Posted by つむたい at 20:46│Comments(0)
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