2014年12月22日

『被爆・戦後70年 核兵器をなくす年に ~若い世代へ~』

子どもたちは待ちに待った冬休み。大人は…。師走で忙しい~。年末の大掃除に、年賀状はもう書いたかな?
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆1月1日号

『被爆・戦後70年 核兵器をなくす年に 島根・松江市 西尾幸子さんを訪ねて』

今年、2015年は被爆・戦後70年。原爆で亡くなった同級生223人の無念の死を忘れず、その思いを自作のタペストリーに込め、戦争反対、核兵器廃絶を訴え続けている島根県松江支部の西尾幸子さん(82)を訪ねました。

「70年たっても一人一人のことを話すと涙が出るの」と西尾さん。戦争は絶対ダメ、核兵器をなくしたいとの思いを込めたタペストリーを見せながら、子どもたちや子育て世代のお母さんたちに体験を伝えています。

西尾さんは広島市出身。県立広島第一高等女学校(現在の皆実高校)に入学したのは1945年の4月。13歳でした。母のすすめで島根県の田舎に疎開していた8月6日、原爆が落とされました。勤労動員で外の作業に出ていた同級生は全員犠牲に。今でも亡くなった同級生への思いが薄れることはありません。

「ガマンにガマンを重ねて、最後は一番悲惨な原子爆弾で死ななければならなかった。同級生は、まるで戦争に殺されるために生まれてきたようなもの。あまりに残酷です」

「この思いは言葉では言い尽くせない」ーなんとか形にできないだろうかと思っていた時に、背中を押したのが、新婦人の被爆50周年記念平和タペストリーコンクールでした。

「思い立って挑戦してみたら、次つぎとアイデアが浮かんでね。こういう表現の仕方もあるんだな、と気づいた。ありがたいことでした」

どの作品も同級生223人の思いを形にしています。被爆70年に向けた最新作で5枚目になりました。原爆ドームそばの元安川でのとうろう流しを描いたもの。とうろうには同級生の名前とよびかけの言葉を記しました。

三好ゆり子さんのとうろうには、「『一生涯仲良しでいようね』と約束していたゆりちゃん。私だけ生き残ってごめんなさい。一人っ子のあなたをこよなく愛したお母さんの悲しみ。原爆はゆるせません」。ゆり子さんの母親はわが子を亡くした悲しみのあまり、翌年入水自殺したのです。

箕輪恵子さんのとうろうには、「お兄様が慰霊祭で『どなたか恵子の最後を知ってる方はおられませんか』と尋ねておられた」と。どれも天国にいる同級生への手紙のようです。

「とうろうを張りながら、『一人ひとりに生きた現実があったことを伝えたい』と改めて思いました。本当は全員の亡くなった様子を残しておきたいけれど…。なんとか残せる最後の機会かと思って」

西尾さんが生まれた1932年(昭和7年)は、「満州事変」の翌年。日本は中国東北地方で起こした鉄道爆破から15年にわたる侵略戦争に突入します。生まれた時からずっと戦争で、平和な時代がくるとは思いもしなかったと西尾さん。

戦後、高校に戻ってからの日々は「別世界」のようでした。1年遅れで、同級生も知らない人ばかり。原爆の被害について話すことは1度もありませんでした。連合軍の占領下では原爆の子とは口にできず、みんな家族のだれかを亡くし、つらい話はしたくなぁったのです。

校舎は被服廠の倉庫跡。ベニヤ板で仕切った粗末な教室。ものはなくてみじめでしたが、日本国憲法を初めて読んだときの感動は忘れられないと言います。これで日本は戦争をしないですむという喜び。白いご飯が食べられて「あ~これが平和だ」と思う。音楽の授業でクラッシックを習うと「この世にこんな美しい音楽があるのか」と思う。平和であることを全身で実感する日々でした。

卒業後、結婚して島根に移住。3人の子どもの母親になりました。長女が中学生になったとき、「ああ、(友だちは)こんな娘だったんだな」と、子を失った親の悲しみがわかったといいます。

30代で新婦人に入会。40年間、松江支部や県本部で専従として働き、語り部として自らの経験を話す機会もたびたびありました。みんなの幸せを願って誠実に生きる仲間に支えられました。同窓生の中には今でも人に話したことがないという人もいるといいます。

「生き残った申し訳なさは消えないし、何十年たっても心の整理がつくことではないですよ。私が自分の生かされた意味を理解できるのも、新婦人のおかげです」

活動の中で多くのことを学びました。たくさんの若い会員に囲まれ、変わっていく世の中を感じながら、子どもたちに社会を手渡せばいいのか考えさせられる日々。

憎しみの連鎖を断ち切って、核兵器廃絶に力を入れた被爆者運動は素晴らしいもの。西尾さんは、「いつかはアメリカが『原爆を落としたのはまずかった』と反省してほしい」と。それにはまず日本がアジアへの侵略と植民地支配の過ちを正すことなしに国際社会への信頼を取り戻せないと思う、と話します。

「私の宝物」と見せてくれたのは、語り部として訪れる小学校や学童保育所の子どもたちの感想文集。広島への修学旅行の事前学習で毎年、西尾さんの話を聞く学校もあります。ある学童保育の小学2年生の女の子の文です。

「戦争しなくても口があるから、仲良くなれると思いました。私も戦争をしない大人になりたいです」

西尾さんは「私の話を聞いて自分で考えたんですね。どんなに小さな子どもでも、真剣に話せば受け止めてくれる」。戦争の歴史的な事実、原爆の実相は、学校教育できちんと学んでほしいとつよく願っています。

核兵器廃絶が世界的な流れになるなか、4月にはNPT(核不拡散条約)再検討会議がニューヨークで開かれます。今度のNPT会議は「核兵器の全面禁止条約
の締結にむけて大きく前進させる機会です。唯一の被爆国日本の政府が果たす役割は大きいのに、今の安倍政権は戦後最悪。

「手をこまねいているわけにはいきません。戦争できる国づくり反対とあわせて核兵器をなくすため、世論と運動の力を信じてがんばりたい。ニューヨークには松江支部から若い人が行くんですよ」

「生きることはすばらしい。それは戦後、日本がずっと殺し殺される戦争をしなかったから。いま、若い人たちに平和の大切さを伝えたい」

西尾さんのおだやかな瞳が輝きました。



『わかいお母さん」

わかいお母さん
わが子を 今日も しっかり抱きしめましたか
その手のぬくもりの中に 命の愛おしさを感じましたか

いまから70年前
命が木の葉のように焼かれ 虫けらのように葬られた

私はそのとき 広島の女学校の1年生(13歳)でした
8月6日 私の同級生223人は 建物疎開の片づけで
外の作業に出ていました
その頭上で 原子爆弾がさく裂したのです
103人はその場で消えました
小野さんも消息不明です
30人は己斐(こい)小学校までにげました
「おかあさーん はようたすけにきて」と叫びながら
あくる朝には全員 息絶えていました
佐藤さんは 小学校までたどり着けずに
坂道の途中 全身ヤケドで倒れていました
みんなにはぐれた人達は 火の中をさまよい
ひとりぼっちで 亡くなりました
三好さんは さがしに来たお母さんに抱かれて
冷たくなりました
三日の間に 223人全員が 帰らぬ人となりました
あと 10日もたたないうちに
戦争が終わることも知らずに

生き残ったのは その日 休んだものだけ
私もその一人です

地球上の人間をみな殺しにする 核兵器
つくり続けることを 許せますか!
人間がつくりだした 核兵器
人間の手で なくせないはずがありません!


若い世代への語り部活動で西尾さんが語りかけている思いです。


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『災害時に備える自宅のトイレ』
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『被爆者の記憶をもとに 高校生が描いた原爆の絵』
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