2014年09月16日
『らいてうと白蓮「家」制度に反逆して 女性史研究者 折井美耶子』
今日は祝日、子どもは休み。昨日のうたう仲間のフェスティバルで転がり込んできた県大会出場への対応でバタバタf^_^;
今週の新婦人しんぶんの☆勝手にピックアップ☆9月18日号
『らいてうと白蓮「家」制度に反逆して』
女性史研究者 折井美耶子
NHK朝の連続テレビドラマ「花子とアン」に登場する白蓮が注目を集めています。
この柳原白蓮、1885(明治18)年10月15日生まれ、父の柳原前光伯爵に誕生の知らせが届いたのは鹿鳴館の夜会の席上だったといわれ、その華やかな光にちなんであき子と名づけられました。平塚らいてうは1868(明治19)年2月10日生まれ、父は会計検査院の官吏平塚定二郎で、姉の孝につづいて明(はる)と名付けられました。らいてうは早生まれで二人は同学年、境遇はちょっと違いますが、同じ時代の空気を吸って育ちました。「家」制度のもとで、女は一人の人間としてではなく嫁・妻・母としての役割のみを果たすことが求められる明治民法が制定されたのは1896年(明治29)年、彼女たちが思春期を迎えるころでした。
白蓮の生母は柳橋の芸妓で、生後7日目に本邸に引き取られましたが、まもなく里子に出され、学齢になると本邸に戻ります。しかしここでの生活も2年ほどで、遠戚にあたる北小路子爵の養女に出され、やがてそこの長男資武ともうすぐ15歳という幼さで結婚させられます。翌年功光を生み、一家で京都に転居しますが、子どもは溺愛する姑に取り上げられ、知人もいない京都で白蓮は孤独な日々を過ごし、東京に帰りたいと強く訴えて、ようやく離婚が成立します。子どもは北小路家の後継として婚家に残してこざるをえませんでした。
このとき白蓮はまだ20歳、「出戻り」という蔑視に耐え、学校に行きたいと切望して東洋英和女学校に入ることができました。ここからドラマに登場し、花子との友情が生まれるのです。
波乱に満ちた生い立ちの白蓮と比べて、らいてうは愛情深い両親のもとで何不自由なく育ちます。利発だったらいてうは幼いころから物事を深く考える性質で、御茶の水高女の良妻賢母教育に反発し、「女子を人として教育する」を理念とした成瀬仁蔵の日本女子大に入学を願いますが、父は許さず母の口添えでようやく入ることができました。
そのころから「人間とは何か、生きるとは」というらいてうの「精神の彷徨」が始まり、座禅修業ののち見性して、自由な心境のもと森田草平との「塩原事件」をおこします。らいてうにとってそれは「わが生涯の体系を貫徹す」という禅的行動でしたが、世間からはスキャンダルとして扱われ、人として自由に生きることの壁を痛感します。
その後、日本で初めての女性による女性の雑誌『青鞜』を創刊。その「元始、女性は太陽であった」は、当時の若い女性たちの心を揺さぶります。このときはじめて「らいてう」という雅号を用いました。やがて奥村博史と恋愛をして、明治民法の「家」制度を否定した結婚―「愛の共同生活」を始めます。1914(大正3)年、らいてう28歳のときです。2人の子をもうけますが、親の家から独立した「平塚明」の戸籍に「私生子」として入籍。そこには一人の人間として生きるという強い意思が働いていました。
白蓮は東洋英和女学校を卒業しましたが、兄伯爵の強制によって25も歳の離れた九州の炭鉱王と再婚させられます。苦痛に満ちた結婚生活のなかで短歌を詠み、「白蓮」という雅号で発表を始めます。やがて宮崎隆介と恋愛して家出しますが、妻の恋愛は「姦通罪」として裁かれることから、大事件となりました。1921(大正10)年、白蓮36歳、らいてうの結婚より7年あとのことでした。しかし愛貫いて新生活を開始し、二子をもうけます。らいてうは「柳原あき子さん」と題して「あき子さんの新生活を祝福し、自由を得られたあき子さんがそれに伴う責任を自覚され…十分強くなられることを祈る」と書きました。大正デモクラシーの真っただ中、女性の人格を否定した「家」制度に反発し、家出する女性が増えてきた時代でした。
その後、ふたりとも筆一本で生活を支えるために苦闘する時代がありましたが、何よりも愛情で結ばれた生活は心豊かでした。しかし戦争は彼女たちの生活にも影を落とします。らいてうは長男敦史が「私生子」のため不利な扱いを受け、二等兵として最前線に送り出されることをよしとせず、奥村家に入籍。敦史は技術将校として戦争に臨み、あき子の長男香織は学徒出陣で、終戦4日前に亡くなってしまいました。
戦争が終わって新憲法の下、彼女たちを苦しめた民法が改正され「家」制度はなくなりました。二人にとって戦後の大きな課題は平和でした。白蓮は1946(昭和21)年、ラジオで戦争のため子どもを亡くした母たちに語りかけたことわきっかけに「非母の会」を結成し、全国を講演してまわる活動を開始しました。最近講演先で詠んだ歌が発見されて話題になりました。やがて外国人を含む「国際非母の会」となり、湯川秀樹らの世界連邦建設運動に参加します。
らいてうは平和憲法の誕生を心から歓迎し、世界連邦建設同盟に入会しますが、この運動にあきたらず自ら行動を起こします。1950(昭和25)年講和条約締結にあたって「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を起草し、米国務省顧問ダレスに渡します。その後は平和への行動を積極的に起こし、新日本婦人の会発足(1962年)にあたっては呼びかけ人となりました。1970年死去の1年前、病をおして安保反対の出もを成城で行ったことはよく知られています。
らいてう、白蓮に共通するところは、時代の枠を破って、人間らしく自分らしく生きることを強く希求し行動し、その人生を全うしたところにあると思います。
今週の新婦人しんぶんの☆勝手にピックアップ☆9月18日号
『らいてうと白蓮「家」制度に反逆して』
女性史研究者 折井美耶子
NHK朝の連続テレビドラマ「花子とアン」に登場する白蓮が注目を集めています。
この柳原白蓮、1885(明治18)年10月15日生まれ、父の柳原前光伯爵に誕生の知らせが届いたのは鹿鳴館の夜会の席上だったといわれ、その華やかな光にちなんであき子と名づけられました。平塚らいてうは1868(明治19)年2月10日生まれ、父は会計検査院の官吏平塚定二郎で、姉の孝につづいて明(はる)と名付けられました。らいてうは早生まれで二人は同学年、境遇はちょっと違いますが、同じ時代の空気を吸って育ちました。「家」制度のもとで、女は一人の人間としてではなく嫁・妻・母としての役割のみを果たすことが求められる明治民法が制定されたのは1896年(明治29)年、彼女たちが思春期を迎えるころでした。
白蓮の生母は柳橋の芸妓で、生後7日目に本邸に引き取られましたが、まもなく里子に出され、学齢になると本邸に戻ります。しかしここでの生活も2年ほどで、遠戚にあたる北小路子爵の養女に出され、やがてそこの長男資武ともうすぐ15歳という幼さで結婚させられます。翌年功光を生み、一家で京都に転居しますが、子どもは溺愛する姑に取り上げられ、知人もいない京都で白蓮は孤独な日々を過ごし、東京に帰りたいと強く訴えて、ようやく離婚が成立します。子どもは北小路家の後継として婚家に残してこざるをえませんでした。
このとき白蓮はまだ20歳、「出戻り」という蔑視に耐え、学校に行きたいと切望して東洋英和女学校に入ることができました。ここからドラマに登場し、花子との友情が生まれるのです。
波乱に満ちた生い立ちの白蓮と比べて、らいてうは愛情深い両親のもとで何不自由なく育ちます。利発だったらいてうは幼いころから物事を深く考える性質で、御茶の水高女の良妻賢母教育に反発し、「女子を人として教育する」を理念とした成瀬仁蔵の日本女子大に入学を願いますが、父は許さず母の口添えでようやく入ることができました。
そのころから「人間とは何か、生きるとは」というらいてうの「精神の彷徨」が始まり、座禅修業ののち見性して、自由な心境のもと森田草平との「塩原事件」をおこします。らいてうにとってそれは「わが生涯の体系を貫徹す」という禅的行動でしたが、世間からはスキャンダルとして扱われ、人として自由に生きることの壁を痛感します。
その後、日本で初めての女性による女性の雑誌『青鞜』を創刊。その「元始、女性は太陽であった」は、当時の若い女性たちの心を揺さぶります。このときはじめて「らいてう」という雅号を用いました。やがて奥村博史と恋愛をして、明治民法の「家」制度を否定した結婚―「愛の共同生活」を始めます。1914(大正3)年、らいてう28歳のときです。2人の子をもうけますが、親の家から独立した「平塚明」の戸籍に「私生子」として入籍。そこには一人の人間として生きるという強い意思が働いていました。
白蓮は東洋英和女学校を卒業しましたが、兄伯爵の強制によって25も歳の離れた九州の炭鉱王と再婚させられます。苦痛に満ちた結婚生活のなかで短歌を詠み、「白蓮」という雅号で発表を始めます。やがて宮崎隆介と恋愛して家出しますが、妻の恋愛は「姦通罪」として裁かれることから、大事件となりました。1921(大正10)年、白蓮36歳、らいてうの結婚より7年あとのことでした。しかし愛貫いて新生活を開始し、二子をもうけます。らいてうは「柳原あき子さん」と題して「あき子さんの新生活を祝福し、自由を得られたあき子さんがそれに伴う責任を自覚され…十分強くなられることを祈る」と書きました。大正デモクラシーの真っただ中、女性の人格を否定した「家」制度に反発し、家出する女性が増えてきた時代でした。
その後、ふたりとも筆一本で生活を支えるために苦闘する時代がありましたが、何よりも愛情で結ばれた生活は心豊かでした。しかし戦争は彼女たちの生活にも影を落とします。らいてうは長男敦史が「私生子」のため不利な扱いを受け、二等兵として最前線に送り出されることをよしとせず、奥村家に入籍。敦史は技術将校として戦争に臨み、あき子の長男香織は学徒出陣で、終戦4日前に亡くなってしまいました。
戦争が終わって新憲法の下、彼女たちを苦しめた民法が改正され「家」制度はなくなりました。二人にとって戦後の大きな課題は平和でした。白蓮は1946(昭和21)年、ラジオで戦争のため子どもを亡くした母たちに語りかけたことわきっかけに「非母の会」を結成し、全国を講演してまわる活動を開始しました。最近講演先で詠んだ歌が発見されて話題になりました。やがて外国人を含む「国際非母の会」となり、湯川秀樹らの世界連邦建設運動に参加します。
らいてうは平和憲法の誕生を心から歓迎し、世界連邦建設同盟に入会しますが、この運動にあきたらず自ら行動を起こします。1950(昭和25)年講和条約締結にあたって「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を起草し、米国務省顧問ダレスに渡します。その後は平和への行動を積極的に起こし、新日本婦人の会発足(1962年)にあたっては呼びかけ人となりました。1970年死去の1年前、病をおして安保反対の出もを成城で行ったことはよく知られています。
らいてう、白蓮に共通するところは、時代の枠を破って、人間らしく自分らしく生きることを強く希求し行動し、その人生を全うしたところにあると思います。
Posted by つむたい at 00:04│Comments(0)
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