2012年03月06日
『東日本大震災から1年 津波を乗り越えて』
今日は雨。事務所に新聞を持ってくるのも大変です。雨がなくても困るのですがf^_^;
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆ 3月8日号
『東日本大震災から1年 津波を乗り越えて』生かされた私が、いま
3.11東日本大震災からまもなく一年。大震災で確認された岩手、宮城、福島3県のうち、65%が60歳以上、92%が津波による水死でした。1千人の死者・行方不明を出し、9800人が避難生活を送る釜石市に、7ヶ月ぶりに洞口トシさん(86)を訪ねました。
「ようやく(仮設の)この生活にも慣れて、この頃一人になると、津波でどういう人がなくなったのかなと…。何とも言われないですね。同じ集落のよく知っている方がいっぱい亡くなって、義弟やめいも亡くなっているなかで私は生きたんですね」
仮設住宅に入居まもなくと違うのは、トシさんがデイサービスに通いだしたけとです。
「ユニットの湯船は深すぎてこわいって半月も風呂さ入らないんだもの、こっちまで具合が悪くなった」と夫の伊章さん(86)。しぶしぶデイサービスに行くようになったトシさんがいまでは、「若い職員がやさしくて、食事めおいしい。頭を洗ってくれるのが気持ちいい」とにっこり。
プレハブのデイサービスセンターで働いてるのは、あの日、津波で浸水した介護施設からお年寄りを避難させた「愛恵会」の職員たち。
「こでは、被災した家族には話せない震災のときの話をする方も。心が安らげる場になればと思っています。一回でも多く笑って帰ってもらいたい」と所長の及川制子さん。デイサービス利用者が震災前より多くなったといいます。
津波による死者の多くは高齢者でしたが、今も人口の3分の1が高齢者。2030年の日本にも匹敵する高齢者率の高い釜石には、「福祉の町づくり」を切望する声がひろがっています。
「年寄りが多いなら、私たちはここが『福祉の町』になるばいいなと思っているんです。特養老人ホームも保育園も待機者がいかい、小規模多機能施設を小学校区ごとにつくって、働いてる人にも待遇をよくして…。見学者を迎え民宿もつくる。被災地から日本を変えていきたい」と新婦人釜石支部事務局長
「津波の教訓を生かしてこういう施設が防災の拠点にならなければ」とデイサービスの職員もうなずきます。
あの日、昼食後、茶わんを洗って台所でちょっと休んでるときでした。すごい一撃にトシさんは、つえとズックを下駄箱から出し、スリッパのま飛び出しました。音もなく押し寄せる津波は家も蔵も飲み込み、足元までがれきの海に―。
生き延びることができたのはまず“よし坊”のおかげとトシさん。トシさんを日頃から慕っていた知的障害のある“よし坊”は、オーバーでトシさんを包み、大きな体で暖め続けてくれました。集落の仲間は、みぞる降る真っ暗ななか隣家までロウソクとマッチをもらいに崖を下り、手探りで暖をとってくれました。
さらに、心臓が弱ったトシさんを担架に乗せて峠を下り、救急車に乗せてくれた地元の消防団の若者たち…。
「集落の人はほんとうに身内みたいなもの。これも津波が引き寄せた絆ですね」
「親に、人間は最後まで何があるかわからないんだよとおしえられたんですが、それはこのことだったんだと思いました。私はいろんな人のおかげで助かった。私、若い頃、乳飲み子だった男の子を亡くし娘も亡くし、自然を眺めていると、大好きだった子どもたちと心が通っているような気がしていました。自然をみているのが好きだったし、いつも空を見ていました。これからも亡くなった人たちと一緒に生きていきます。昔を知っている人間は私しかいないわけですから…。そんな思いがこのごろようやく…」
トシさんの横には、冗談を言って笑わせる伊章さんがいつもいます。
「いずれ仮設住宅を出ることになるけど、うちは後継者がいないから家わ建ててもしかたない。体の弱い家内を抱えてでう住むか…」そのとき阪神・淡路大震災を機につくられた『星が丘ホーム』の話を新婦人しんぶんで知り、大きなヒントに。
「いま高台移転や8階建て、5階建ての災害公営住宅建設の話があるけど、いつ人生が終わるかわからない高齢者の住宅づくりには、近所に小規模多機能施設をつくる町づくりは切実。いまから声を大にしてやるテーマだね。私にとっては家内を幸せにする環境づくりですよ(笑)」
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆ 3月8日号
『東日本大震災から1年 津波を乗り越えて』生かされた私が、いま
3.11東日本大震災からまもなく一年。大震災で確認された岩手、宮城、福島3県のうち、65%が60歳以上、92%が津波による水死でした。1千人の死者・行方不明を出し、9800人が避難生活を送る釜石市に、7ヶ月ぶりに洞口トシさん(86)を訪ねました。
「ようやく(仮設の)この生活にも慣れて、この頃一人になると、津波でどういう人がなくなったのかなと…。何とも言われないですね。同じ集落のよく知っている方がいっぱい亡くなって、義弟やめいも亡くなっているなかで私は生きたんですね」
仮設住宅に入居まもなくと違うのは、トシさんがデイサービスに通いだしたけとです。
「ユニットの湯船は深すぎてこわいって半月も風呂さ入らないんだもの、こっちまで具合が悪くなった」と夫の伊章さん(86)。しぶしぶデイサービスに行くようになったトシさんがいまでは、「若い職員がやさしくて、食事めおいしい。頭を洗ってくれるのが気持ちいい」とにっこり。
プレハブのデイサービスセンターで働いてるのは、あの日、津波で浸水した介護施設からお年寄りを避難させた「愛恵会」の職員たち。
「こでは、被災した家族には話せない震災のときの話をする方も。心が安らげる場になればと思っています。一回でも多く笑って帰ってもらいたい」と所長の及川制子さん。デイサービス利用者が震災前より多くなったといいます。
津波による死者の多くは高齢者でしたが、今も人口の3分の1が高齢者。2030年の日本にも匹敵する高齢者率の高い釜石には、「福祉の町づくり」を切望する声がひろがっています。
「年寄りが多いなら、私たちはここが『福祉の町』になるばいいなと思っているんです。特養老人ホームも保育園も待機者がいかい、小規模多機能施設を小学校区ごとにつくって、働いてる人にも待遇をよくして…。見学者を迎え民宿もつくる。被災地から日本を変えていきたい」と新婦人釜石支部事務局長
「津波の教訓を生かしてこういう施設が防災の拠点にならなければ」とデイサービスの職員もうなずきます。
あの日、昼食後、茶わんを洗って台所でちょっと休んでるときでした。すごい一撃にトシさんは、つえとズックを下駄箱から出し、スリッパのま飛び出しました。音もなく押し寄せる津波は家も蔵も飲み込み、足元までがれきの海に―。
生き延びることができたのはまず“よし坊”のおかげとトシさん。トシさんを日頃から慕っていた知的障害のある“よし坊”は、オーバーでトシさんを包み、大きな体で暖め続けてくれました。集落の仲間は、みぞる降る真っ暗ななか隣家までロウソクとマッチをもらいに崖を下り、手探りで暖をとってくれました。
さらに、心臓が弱ったトシさんを担架に乗せて峠を下り、救急車に乗せてくれた地元の消防団の若者たち…。
「集落の人はほんとうに身内みたいなもの。これも津波が引き寄せた絆ですね」
「親に、人間は最後まで何があるかわからないんだよとおしえられたんですが、それはこのことだったんだと思いました。私はいろんな人のおかげで助かった。私、若い頃、乳飲み子だった男の子を亡くし娘も亡くし、自然を眺めていると、大好きだった子どもたちと心が通っているような気がしていました。自然をみているのが好きだったし、いつも空を見ていました。これからも亡くなった人たちと一緒に生きていきます。昔を知っている人間は私しかいないわけですから…。そんな思いがこのごろようやく…」
トシさんの横には、冗談を言って笑わせる伊章さんがいつもいます。
「いずれ仮設住宅を出ることになるけど、うちは後継者がいないから家わ建ててもしかたない。体の弱い家内を抱えてでう住むか…」そのとき阪神・淡路大震災を機につくられた『星が丘ホーム』の話を新婦人しんぶんで知り、大きなヒントに。
「いま高台移転や8階建て、5階建ての災害公営住宅建設の話があるけど、いつ人生が終わるかわからない高齢者の住宅づくりには、近所に小規模多機能施設をつくる町づくりは切実。いまから声を大にしてやるテーマだね。私にとっては家内を幸せにする環境づくりですよ(笑)」
Posted by つむたい at 00:34│Comments(0)
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