2016年10月03日
『ハンセン病の真実、知ってほしい』
いつの間にか10月です。とりあえず娘の初めてのお泊りは無事終了。10月はお祭りだあ!
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆10月6日号
『ハンセン病の真実、知ってほしい』 ―多摩全生園の山内きよ江さん(82)を訪ねて
ハンセン病を題材にした映画『あん』(河瀬直美監督・脚本)の舞台となったのは、東京都東村山市にある国立療養所多摩全生園。療養所に住む会員の山内きよ江さんを訪ねました。
私は22歳で静岡県の実家から多摩全生園にきて、今、82歳です。入所まで「ハンセン病」との診断を受けたことがなく、重症化し、手足の指をなくすなど重い後遺症があります。22歳で診断されたときはすでに無菌状態でした。
ここで知り合って結婚した夫は、2011年に亡くなり、一人暮らしです。
若いころから夢だった社会復帰を果たしたのは70歳の時。そのとき、高齢、障害者で保証人もいない…、不動産屋を何軒まわっても断られ、困り果てていた時出会ったのが、新婦人東村山支部の黒田せつ子さんでした。すぐ近くのマンションを見つけて一緒に交渉してくれ、住まいが決まりました。
学校に通う子どもの声が聞こえてくるのがなつかしく、マンションの隣が納豆屋さんで朝2時ごろには納豆のにおいがしてくる。人の住んでる社会に出たことを実感しました。自分の健康保険証をもらったときはうれしかったですね。療養所では保険証はないんです。「地域の人とつながるのがいいわよ」と、新婦人のぎく班に入って、班会議でおしゃべりしたり。
外に出たのは私ひとりで、夫は体調のいい時にきて一緒に過ごす生活でした。7年後には先に逝ってしまいました。一人になって気力も体力もなくなり、できたこともできなくなり、全生園に戻りました。
後になって7歳の時にハンセン病の初期症状が出ていたとわかりました。翌年に太平洋戦争に突入という時代でした。戦争がなければ、もっと早く治療できたかもしれない。戦争で、十分な診察も受けられなければ、赤チン(殺菌剤)も塗れない、米もなく栄養不足、清潔にしようにもせっけんもない…、戦争は弱者にとって最悪、人間らしいことを全部まひさせてしまいます。これから戦争になったらどういうことになるか、ここでみんな立ち上がらないと、と思います。
この診療所は、私がきた頃は1000人以上が暮らしていました。今は190人ほどで、入所者の平均年齢は84歳です。全生園で最後まで過ごしたい。自然豊かな敷地を生かして、障害者やお年寄りの居場所があり、子どもの声が聞こえ、地域の人が行き来する、開かれた場所になってほしい。ハンセン病への無理解や偏見、差別が昔に比べればやわらかになっています。ハンセン病の真実を未来に伝え続けていける場所に、と願います。
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ハンセン病は「らい菌」による感染症。現在は有効な治療薬が開発され、早期発見と治療により後遺症を残さずに治るようになった。しかし、かつて不治の病と恐れられ、患者とその家族は差別と、1996年に法律が廃止されるまで続いてきた国の強制隔離政策により、筆舌に尽くし難い苦痛を受け苦難を強いられた。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆10月6日号
『ハンセン病の真実、知ってほしい』 ―多摩全生園の山内きよ江さん(82)を訪ねて
ハンセン病を題材にした映画『あん』(河瀬直美監督・脚本)の舞台となったのは、東京都東村山市にある国立療養所多摩全生園。療養所に住む会員の山内きよ江さんを訪ねました。
私は22歳で静岡県の実家から多摩全生園にきて、今、82歳です。入所まで「ハンセン病」との診断を受けたことがなく、重症化し、手足の指をなくすなど重い後遺症があります。22歳で診断されたときはすでに無菌状態でした。
ここで知り合って結婚した夫は、2011年に亡くなり、一人暮らしです。
若いころから夢だった社会復帰を果たしたのは70歳の時。そのとき、高齢、障害者で保証人もいない…、不動産屋を何軒まわっても断られ、困り果てていた時出会ったのが、新婦人東村山支部の黒田せつ子さんでした。すぐ近くのマンションを見つけて一緒に交渉してくれ、住まいが決まりました。
学校に通う子どもの声が聞こえてくるのがなつかしく、マンションの隣が納豆屋さんで朝2時ごろには納豆のにおいがしてくる。人の住んでる社会に出たことを実感しました。自分の健康保険証をもらったときはうれしかったですね。療養所では保険証はないんです。「地域の人とつながるのがいいわよ」と、新婦人のぎく班に入って、班会議でおしゃべりしたり。
外に出たのは私ひとりで、夫は体調のいい時にきて一緒に過ごす生活でした。7年後には先に逝ってしまいました。一人になって気力も体力もなくなり、できたこともできなくなり、全生園に戻りました。
後になって7歳の時にハンセン病の初期症状が出ていたとわかりました。翌年に太平洋戦争に突入という時代でした。戦争がなければ、もっと早く治療できたかもしれない。戦争で、十分な診察も受けられなければ、赤チン(殺菌剤)も塗れない、米もなく栄養不足、清潔にしようにもせっけんもない…、戦争は弱者にとって最悪、人間らしいことを全部まひさせてしまいます。これから戦争になったらどういうことになるか、ここでみんな立ち上がらないと、と思います。
この診療所は、私がきた頃は1000人以上が暮らしていました。今は190人ほどで、入所者の平均年齢は84歳です。全生園で最後まで過ごしたい。自然豊かな敷地を生かして、障害者やお年寄りの居場所があり、子どもの声が聞こえ、地域の人が行き来する、開かれた場所になってほしい。ハンセン病への無理解や偏見、差別が昔に比べればやわらかになっています。ハンセン病の真実を未来に伝え続けていける場所に、と願います。
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ハンセン病は「らい菌」による感染症。現在は有効な治療薬が開発され、早期発見と治療により後遺症を残さずに治るようになった。しかし、かつて不治の病と恐れられ、患者とその家族は差別と、1996年に法律が廃止されるまで続いてきた国の強制隔離政策により、筆舌に尽くし難い苦痛を受け苦難を強いられた。