2016年02月01日
『THE BEATLES 世界中を熱くした不滅のメロディー』
暖冬だと言われていたのに、急に寒くなりペットたちもついていけないようで、実家の年寄猫が突然死んでしまいました。聞けば風邪をひく猫や犬も多いようです。お年寄りのペットたちにはとくに気を付けてあげてくださいね。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆2月4日号
『THE BEATLES 世界中を熱くした不滅のメロディー ライター和田静香さんに聞く』
2月4日はビートルズの日。彼らの愛称のFab4とFeb4(英語で2月4日)をかけてそう呼ばれています。初来日から50年に当たる今年、その熱狂ぶりを当時のの洋楽雑誌で振り返りながら、ライターの和田静香さんにお話をお聞きしました。
ビートルズのデビューは1962年ですが、日本で最初に紹介されたのは『ミュージックライフ』(当時日本で唯一の洋楽雑誌。以下『ML』)1963年3月号の小さな記事です。ここに載った、このマッシュルームカットの写真がすべての始まりです。
当時の『ML』を読むと、その熱狂ぶりがよくわかります。64年4月号に音楽評論家の湯川れい子さんがビートルズの特集記事を書いた後、5月号にはもう「夢中です」という男の子からの投書が来ます。そこには「強烈な騒音の持ち主ビートルズ」と書かれています。いま私たちが聞いてもビートルズのサウンドを騒音とは感じませんが、ロックという音楽も概念もなかった当時の日本人、若者にはそう受け止められたんですね。
1964年公開の映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』について『ML』(64年11月号)で14歳の女の子がこんなふうに言っています。「とうとう12回も見た。なにしろ可愛い。あの頭でまじめな顔をすればするほどおかしくなる」。
日本ではそれまでファッショナブルな男の子に女の子が夢中になるなんてなかったのです。ビートルズのマッシュルームカットや長髪、花柄や水玉様のプリントなどカラフルなファッションは男の子に「かわいい」という概念を作り、その後のファッションに大きな影響を与えます。
音楽を通して大人社会や既存の秩序に反抗する若者文化や、アイデンティティーを社会に広めた彼らだからこそ、時を超えて愛され続けているのだと思います。
彼らの出身地リバプールはイングランド北西部の港町で、ロンドンとは反対側のアイリッシュ海に面した都市です。アメリカ南部から船員たちがレコードを持ち込み、黒人音楽が簡単に手に入る土地柄でした。アメリカでは白人と黒人の文化が隔離されていたのに対し、イギリスでは特に若者は寛容さがあって「黒人音楽カッコイイ」と受け入れる土壌があったのです。
そこで彼らはエネルギッシュな黒人音楽の要素を取り入れ、荒々しい感情を奮い立たせるような音楽を作っていきました。ビートルズの活動期間は7年半ですが、その間に自分たちの音楽性を高め続け、永遠不滅のメロディーを残しました。
そして彼らをとりまくエネルギッシュな人たちがいたことも大きいですね。まずブライアン・エンプスタインというすごいマネージャー。リバプールの大きな電気屋の息子で、レコード販売の担当をしていた彼が、それまで薄汚かったただの不良少年たちに背広を着せておしゃれに仕立て上げました。彼はワンマンで横暴であったとも伝えられていますが、だからこそ伝説のロック・グループを誕生させることができたともいえるでしょう。
またフリーダ・ケリーという女性がいました。ビートルズの解散後、きっぱり業界から離れていた彼女ですが、近年『愛しのフリーダ』(2013年)という映画になり、来日したときお会いしました。彼女は当時17歳でブライアン・エンプスタインの秘書になり、誰にも教わらずにファンクラブを運営し、誠意を尽くした仕事でファンとの信頼関係をガッチリ作りました。この人もビートルズがスターになるのに欠かせなかった人です。彼らがたまたま同じ時代に同じリバプールにいたことは奇跡だと思います。
彼らは途中からコンサートをやめ、レコーディングに徹します。それは当時の質の悪い音響設備で何万人も動員してのコンサートは自分たちの音楽ではないと判断したという説もありますが、とにかくライブ音源を聞ける機会は多くありませんでした。
BBC(英国放送協会)に彼らがラジオ出演したときのスタジオライブ音源が残っていて、昨年CD『オン・エア~ライブ・アット・ザ・BBC vol.2』(ユニバーサルミュージック)で発売されました。これには当時のファンが感じたエネルギーに近いものが溢れていて、人を突き動かし、ワクワクせずにはおられませんでした。ビートルズのすごさって、やっぱりそのエネルギーのすごさだ!ということに尽きますね。
今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆2月4日号
『THE BEATLES 世界中を熱くした不滅のメロディー ライター和田静香さんに聞く』
2月4日はビートルズの日。彼らの愛称のFab4とFeb4(英語で2月4日)をかけてそう呼ばれています。初来日から50年に当たる今年、その熱狂ぶりを当時のの洋楽雑誌で振り返りながら、ライターの和田静香さんにお話をお聞きしました。
ビートルズのデビューは1962年ですが、日本で最初に紹介されたのは『ミュージックライフ』(当時日本で唯一の洋楽雑誌。以下『ML』)1963年3月号の小さな記事です。ここに載った、このマッシュルームカットの写真がすべての始まりです。
当時の『ML』を読むと、その熱狂ぶりがよくわかります。64年4月号に音楽評論家の湯川れい子さんがビートルズの特集記事を書いた後、5月号にはもう「夢中です」という男の子からの投書が来ます。そこには「強烈な騒音の持ち主ビートルズ」と書かれています。いま私たちが聞いてもビートルズのサウンドを騒音とは感じませんが、ロックという音楽も概念もなかった当時の日本人、若者にはそう受け止められたんですね。
1964年公開の映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』について『ML』(64年11月号)で14歳の女の子がこんなふうに言っています。「とうとう12回も見た。なにしろ可愛い。あの頭でまじめな顔をすればするほどおかしくなる」。
日本ではそれまでファッショナブルな男の子に女の子が夢中になるなんてなかったのです。ビートルズのマッシュルームカットや長髪、花柄や水玉様のプリントなどカラフルなファッションは男の子に「かわいい」という概念を作り、その後のファッションに大きな影響を与えます。
音楽を通して大人社会や既存の秩序に反抗する若者文化や、アイデンティティーを社会に広めた彼らだからこそ、時を超えて愛され続けているのだと思います。
彼らの出身地リバプールはイングランド北西部の港町で、ロンドンとは反対側のアイリッシュ海に面した都市です。アメリカ南部から船員たちがレコードを持ち込み、黒人音楽が簡単に手に入る土地柄でした。アメリカでは白人と黒人の文化が隔離されていたのに対し、イギリスでは特に若者は寛容さがあって「黒人音楽カッコイイ」と受け入れる土壌があったのです。
そこで彼らはエネルギッシュな黒人音楽の要素を取り入れ、荒々しい感情を奮い立たせるような音楽を作っていきました。ビートルズの活動期間は7年半ですが、その間に自分たちの音楽性を高め続け、永遠不滅のメロディーを残しました。
そして彼らをとりまくエネルギッシュな人たちがいたことも大きいですね。まずブライアン・エンプスタインというすごいマネージャー。リバプールの大きな電気屋の息子で、レコード販売の担当をしていた彼が、それまで薄汚かったただの不良少年たちに背広を着せておしゃれに仕立て上げました。彼はワンマンで横暴であったとも伝えられていますが、だからこそ伝説のロック・グループを誕生させることができたともいえるでしょう。
またフリーダ・ケリーという女性がいました。ビートルズの解散後、きっぱり業界から離れていた彼女ですが、近年『愛しのフリーダ』(2013年)という映画になり、来日したときお会いしました。彼女は当時17歳でブライアン・エンプスタインの秘書になり、誰にも教わらずにファンクラブを運営し、誠意を尽くした仕事でファンとの信頼関係をガッチリ作りました。この人もビートルズがスターになるのに欠かせなかった人です。彼らがたまたま同じ時代に同じリバプールにいたことは奇跡だと思います。
彼らは途中からコンサートをやめ、レコーディングに徹します。それは当時の質の悪い音響設備で何万人も動員してのコンサートは自分たちの音楽ではないと判断したという説もありますが、とにかくライブ音源を聞ける機会は多くありませんでした。
BBC(英国放送協会)に彼らがラジオ出演したときのスタジオライブ音源が残っていて、昨年CD『オン・エア~ライブ・アット・ザ・BBC vol.2』(ユニバーサルミュージック)で発売されました。これには当時のファンが感じたエネルギーに近いものが溢れていて、人を突き動かし、ワクワクせずにはおられませんでした。ビートルズのすごさって、やっぱりそのエネルギーのすごさだ!ということに尽きますね。