2013年05月06日

『あったかい気持ちになってほしい 腹話術師 いっこく堂さん』

今日はゴールデンウィーク最終日。先週はお休みでしたが、今週は新婦人しんぶんありますよ〜(^∀^)ノ

今週の新婦人しんぶん☆勝手にピックアップ☆5月9日号

『あったかい気持ちになってほしい 腹話術師 いっこく堂さん』

国内外で幅広く活躍し、世代を超えて多くの人を魅了している沖縄出身の腹話術師・いっこく堂さんが、初の自叙伝的児童文学作品『ぼくは、いつでもぼくだった。』(くもん出版)を出版しました。

本を出したのは、沖縄の日本復帰40周年にあたる昨年、子どもの目線で沖縄の現状をどう感じていたか、素直な気持ちで書こうと思ったから。わかりやすく書くということはほんとに難しくて…。でも小学校の課題図書になった県があるとか、図書館に置いてあって、子どもたちに読まれていると伝え聞くと、うれしく思います。

神奈川県で生まれ、5歳(1968年)のとき両親の故郷・嘉手納基地がある沖縄県コザ市(現在の沖縄市)に移住しました。当時沖縄は、まだアメリカの統治下におかれ、本土との行き来にはパスポートが必要でした。7歳のとき、「コザ暴動」(70年、米兵による交通事故で住民が圧殺、無罪になった事件をきっかけに、住民の怒りが爆発。アメリカ軍の車両および基地を焼き打ちした)を目撃し、72年、日本への復帰直後のドルから円への切り替えの混乱も体験しました。

爆音は当たり前、間近に軍用機が見えて「Bー52だよ」「ファントムだ」と教えてくれる友だちがいたり、基地にもぐりこんで遊ぶのが日常でした。子どものころって基地があることは当たり前だったんです。アメリカ人ってお菓子もくれるし、純粋にいい人だと思っていたというのも事実なんですよ。いまになって、真剣に考えなければならない問題だなと感じています。

沖縄の人びとは、基地とともに生活しています。基地の周辺には、毎日、軍用機が飛び交っていて、いつ落ちてくるかわからない恐怖…。そして耳をつんざくような軍用機の騒音に人びとは毎日悩まされています。そんな危険な基地などない方がよいに決まっています。

両親が沖縄戦を体験し、母は子どものころ、幼い弟の泣き声がうるさいと、日本兵に防空壕の外に出されました。爆弾がたくさん落ちてくるなか、死を覚悟しましたがアメリカ兵に助けられました。だれも好きで戦争をしている訳ではないのです。日本を守る上で沖縄に基地があればいいという考えもありますが、世界全体で基地や武器がなくなることこそが抑止力だと思います。

19歳のとき俳優を志望して上京し、劇団民藝に入団しましたが、役者としての行き詰まりというよりも集団生活になじめずに悩んでいました。

米倉斉加年さん演出の旅公演のとき、宴会でものまねをすると「一人でやっている方が生きいきしている」と米倉さんに言われ、一人芸を極めることにしました。中学2年生のときにテレビで見た腹話術師を思い出し、今までの腹話術の概念を大きく変えてやろう」と人形も2体使って、いろんな人形を持ってやるぞ、と決心してやり始めました。

これまでにない時間差の腹話術やものまねを取り入れ、腹話術では不可能だと言われていた「マ・パ・バ行」の両唇音も練習によって克服しました。

いまは役者よりもいいものを見つけたなという感じです。だから、子どもたちには、ある夢を目指していて、途中で違うことに行くのは挫折じゃなく、新しい夢を見つけるための通過点だったと考えてほしい。

腹話術はまずお客さんを意識し、2番目にストーリーを意識するのが芝居との大きな違いかな。お客さんといかに一体化するか。ライブを見てあったかい気持ちになってほしい、というのが目標です。